南山進流声明の流派

覚証院方の声明
大和 中川寺より高野山に進流を移し、“南山進流声明”として確立された高野山三宝院 勝心師はなお一層声明道の興隆を目指し努力され、多くのお弟子さまができました。その中でも心王院 憲海阿闍梨(けんかいあじゃり)は特にすぐれていたようで、百人余りの門下がいたということです。憲海阿闍梨のお弟子さまに般若房 了憲(りょうけん)師・薬師院宝蓮房 祐真(ゆうしん)師・五仏院琳光房 真辨(しんべん)師・正智院覚本房 道範(どうはん)師・三宝院琳定房 源真(げんしん)師・蓮順房 長任(ちょうにん)師の6人が記録されています。その中でも憲海阿闍梨の跡継ぎとして般若房 了憲師の名前をあげておられます。了憲師の孫弟子に覚証院の隆然(りゅうねん)師がおられます。この人は、近年まれに見る声明の達人で、各方面からその音曲を絶賛されていす。この隆然師のお弟子さまに総持院の禅恵法印(ぜんえほういん)と琳円房 重弘(ちょうこう)師がおられ、隆然師の入滅後を重弘師が覚証院を継いでおられます。これを覚証院方の声明といい、南山進流声明の摘流とされています。


金剛三昧院方の声明
般若房 了憲師の同門である祐真師のお弟子さまに金剛三昧院の証蓮房 覚意(かくい)師があります。はじめは了憲師について声明を学んでおられたのですが、了憲師入滅のあと祐真師について学ばれました。そして、祐真師の許しを得て金剛三昧院に帰って声明を広められました。覚意師は現在使われている声明教則本の五音博士の図を作られた方です。この覚意師の声明をもって金剛三昧院方の声明といいます。


東南院方の声明
般若房 了憲師の同門である源真師のお弟子さまに龍信房 剣海(けんがい)師があります。剣海師の声明も名高く、この人の声明をもってその住房の名にちなみ東南院方と呼ばれ一流をおこしました。そのお弟子さまに細谷の覚照房 恵海(えかい)師が出て、東南院方の声明を広められました。そのお弟子さまのひとりに了栄房(りょうえいぼう)という人がありました。了栄房は東南院方の声明を継ぐのですが、あまり稽古はげまず、師に別れたあと、自分の代になって東南院方の声明がくずれてしまうことを恐れて、覚証院の門をたたき、隆然師に師事して声明を学ばれました。しかし、この人は器量がなく、息も短く声のみがむやみに強く、節回しも自由にできませんでした。ところが隆然師に昼夜に仕える姿勢は厚く、その姿を見て隆然師は声明道においてはその域に達していないけれど、特に許すということで最後まで伝授をされました。隆然師入滅のあと、了栄房は何を迷ったのか自らを自賛して
「わたしは覚証院声明のすべてを相伝して、誰にも劣りはしない」
と東南院において声明を広めたのでした。本来、正しい声明を相伝していないのですから、音法に誤りが多いのは当たり前の話です。誤った音法を弟子に伝えたものですから、誤ったかたちで伝えられるのは当然のことで、東南院流と称して現在も伝来されている声明の中に変わった点があるのは以上のような事情によるものです。これを“了栄房の非節” あるいは“了栄房の非韻”といいます。

以上の三派が南山進流にはありましたが、覚証院の流儀が盛行して、他の二派は影をひそめることとなります。しかし、すでに室町時代初期にある程度の混乱が見られ、必ずしも純粋な声明が相伝されていったということはありませんでした。


隆然師以後の相伝
覚証院 隆然師のお弟子さまに玄海・禅恵・快全・重弘・真恵の各師のように名が通っている人が多い中で、重弘師が覚証院を継がれました。重弘師のお弟子さまの中に観深・重円・源宝の各師がり、観深師のお弟子さまに慈鏡(じきょう)師があります。慈鏡師は、口訣集の『声決書』を著された人です。また、源宝師のお弟子さまに隆印師があり、さらにそのお弟子さまに宥恵・重仙の二師があり、重仙師のお弟子さまに定円・性覚・快助の三師が出て、その中快助(かいじょ)師が最も有名な声明家となり、そのお弟子さまに長恵(ちょうえ)師が出られました。
長恵師は高野山明王院の忠義法印の弟子となり、醍醐の清浄光院に住し、その後、鎌倉の二階堂の別当になり、その後、高野山の往生院谷に住した人です。当時の人は長恵師のことを、もともと住んでおられた場所の名前を使って清浄光院といい、または二階堂と称されました。そののち、二階堂を高野山 高祖院に移したので、それ以来高祖院の別名を二階堂と呼ぶようになりました。また、長恵師は明応5年(1496)に、はじめて魚山たい芥集(ぎょさんたいがいしゅう)を著されました。この本は、実に南山進流声明の教則本というべきものであり、現在の教則本である『南山進流声明類聚』(なんざんしんりゅうしょうみょうるいじゅう)のもととなっているものであります。
長恵師のお弟子さまに円深房 勢遍(せいへん)師があり、勢遍師のお弟子さまに順良房 朝意(ちょうい)師があります。朝意師は魚山たい芥集の末尾に『音律開合名目』を付け加えられたほか、声明関係の著述を残しておられます。
朝意師のお弟子さまに勢朝(せいちょう)師があり、そのあとに万徳院 良胤(りょういん)師・浄菩提院 朝誉(ちょうよ)師・宝塔院 融伝(ゆうでん)師、西禅院 栄融(えいゆう)師と続き、栄融師のお弟子さまに普門院 理峯(りほう)師・成蓮院 真源(しんげん)師の二師が出られました。真源師は実際の声明はよくなかったと伝えますが、熱心な研究家であって『密宗声明系譜』をはじめとして多くの声明関係の著作を残されています。
理峯師についで普門院を継承された廉峯(れんほう)師が出られ、理峯師とともに南山進流声明道に尽くされました。そのお弟子さまに密花院 霊瑞師・東南院 寛光師・如意輪寺 弘栄師の三師がでられました。中でも寛光師は『魚山集』の中の要所に現在使用している仮譜をつくった人であります。
また、寛光師について声明を学んだ人の数は三千人と記されています。理峯師・廉峯師二代にわたって相伝された声明の達人であり、東南院方・覚証院方声明の二流を相伝され、自ら東南院を継がれました。


このように、大和 中川寺から高野山に本山を移された“南山進流声明”は幾多の困難を乗り越えながら、また数多くの先徳諸師のご努力のもと、江戸時代にいたるまでその法灯を脈々と伝えていかれたのです。

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